Ressurectionlands.com, 2020, Danielle Brathwaite-Shirley
アーティスト・近藤銀河と哲学者・西條玲奈、そしてメディア研究者・清水知子による鼎談をお届けする。3人の対話は草薙素子の不安定なアイデンティティをめぐって始まり、人工知能(以下、AI)やサイボーグ、ロボットといったテクノロジーの表象分析へと進む。作品と現実を往還しながら展開される議論は、《攻殻機動隊》シリーズの可能性をひらくものでもある。これまで電脳世界や都市の描写に見られる東洋的なモチーフがテクノオリエンタリズムと関連づけられ、あるいは、ダナ・ハラウェイのサイボーグフェミニズムを下敷きに、折衷的、脱構築的、ハイブリッドなどと形容されてきた同シリーズ。その再解釈を通じて、私たちの身体と社会、技術もまた別様の姿をみせるだろう。
近藤は、VRやAR、ゲームなどさまざまなメディアを用いて、レズビアンと美術の関わりをめぐる作品を制作するほか、ME/CFSという難病を抱え車椅子で生活する当事者として、またセクシュアルマイノリティとしての発信も精力的におこなう。西條は、分析哲学を背景に、フェミニスト哲学やロボット倫理学を研究しており、とくにロボットについては、その社会的位置づけや倫理的懸念をジェンダーやセクシュアリティの観点から分析し、注目されている。清水は、文化理論やメディア論が専門で、ハラウェイの理論への造詣も深い。グローバル社会の権力関係に対する批判的な視座をもち、現代美術やサブカルチャーに対する果敢な批評でも知られる。
ジェンダーやエスニシティ、階級といった切り口を交差させながらテクノロジーを分析する中で、やがて話題はAIによる未来の多元性へと及ぶ。私たちは技術を多数派から解放し、偶然性と複数性に向けてひらくことができるだろうか。ローカルな文脈を引き受け、コミュニティの記憶を語り継ぐ。そんなオルタナティブなAIの可能性を探る。
目次
草薙素子のセクシュアリティ
近藤この座談会にあたって、小学生のころから何度も観てきた押井守監督の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』と『イノセンス』に改めて触れてみました。印象的だったのは、自分の自意識やアイデンティティに対して不安定な感覚をもつ草薙素子のあり方です。「私は存在するのか?」「自分の脳を見たことがない以上、私は本当に人間なのかがわからない」。素子はそんな疑問を抱えています。彼女の義体は量産品であり、自分の顔が街の至るところに置かれている。人間でありながら商品でもあるその姿からは、女性ジェンダーが均質化されること女性ジェンダーの均質化や商品化されることも想起させられました。
西條私も《攻殻機動隊》シリーズとの出会いは同じで、押井監督の映画版からです。人格の同一性をめぐる素子の問いには、やはり興味がありますね。彼女はバトーから「周りもおまえを人間扱いしているし、脳も人間のものなんだから、おまえはおまえ自身だろう」というような言葉をかけられても、自己のアイデンティティを安定させるには至らない。人格の同一性の根拠を他者との関係性に求める議論は、現代でもよく見られるものですが、彼女は違う。周りからの扱われ方ではなくて、自分自身の感覚を問題にしているところが刺激的だと思いました。近藤さんも指摘してるように、その不安は素子のマイノリティとしての身体とも関わっています。
清水そうですね。素子の問いとともに、「ゴースト」という概念も興味深いものだと思いました。藤田さんのご著書にもありますが、言葉の由来はアーサー・ケストラー『機械の中の幽霊』ですよね。作中でゴーストは魂や人格と深く関わるとともに、ネットワークに接続され他者に開かれている。生理学的な根拠があるものとは言い難く、きわめて多義的なイメージを孕んでいます。まるで存在と不在の中間にあって、人間と機械の、情報と生命のあいだを彷徨っているかのようです。押井監督自身、《攻殻機動隊》に続く『イノセンス』を「不在の物語」と呼んでいました。
西條『機械の中の幽霊』のさらに元を辿ると、ギルバート・ライルの『心の概念』に突き当たります。この本は20世紀の行動主義心理学からの影響が非常に強い。心理状態は現実に現れている行動や振る舞いにすべて還元でき、それ以外に独立した心というものを想定するのは哲学的にナンセンスだという主張が展開されています。身体=機械から切り離された、内省する心=幽霊は存在しないというわけですね。つまり、元々のゴーストは抹消されるべき存在だったんです。押井監督の作品では、これがある種ポジティブなもの、存在するはずのものとして描かれている。哲学史的に言えば、行動主義はのちの時代にどんどん批判されていきますが、かといって意識や心がどのように一定の進化的段階で生じたのか、そのメカニズムははっきりしません。ゴーストがどこにあるかは、いまだにわからないのです。
素子と人形使いの融合は、原作でも押井監督の映画版でも描かれます。これは結婚のメタファーでもあれば、生殖のメタファーでもあると思います。AIや人工生命体と結ばれるというかたちで、ある種のセクシュアリティが表現されているかと思いますが、これについてはいかがでしょう。
西條人形使いと素子の融合は、いわゆる生殖とは異なる構図で描かれているように思います。有性生殖であればある個体と個体から、べつの新しい個体が生まれ増えるはずですが、作中ではそうはなっていない。しかし、このプロセスを通じて素子自身はなんらかの変容を被ってはいて、そこが面白いですよね。普通、婚姻関係を結んでも個体は変化しませんが、素子には人格的な拡張が起こっています。それから結婚の話が出たので少し付け加えると、とりわけ原作におけるジェンダー観は、非常に保守的ですよね。男性的な身体と女性的な身体はくっきり分かれているし、その対立を乗り越えるといった図式もあまり見られないと思います。
清水たしかに舞台は未来的ですが、ジェンダーの描き方はステレオタイプから脱していないように感じます。とはいえ、素子については、サイボーグやAI、人造人間を主題にしたほかの作品と比べてみても、少し複雑ではないでしょうか。とりわけ士郎正宗の漫画版《攻殻機動隊》では、素子はパンセクシュアル的であったり、レズビアン的であったりします。他方で、押井監督の映画版ではセクシュアリティそのものがあまり表現されていないようにも感じました。
近藤たしかに全般的に言って、押井監督版では素子のセクシュアリティについてあまり描かれていませんね。ちょっと違うのは、『スカイクロラ』と同時期に公開された『攻殻機動隊2.0』でしょうか。この作品は、元々の《攻殻機動隊》の映像を一部CGに置き換えたり、SEを再編集したりして制作されているのですが、ひとつ大きな変更点があります。人形使いの声が、家弓家正さんという男性の声優から、榊原良子さんという女性の声優に変わっているのです。それに伴って、人形使いの制作者であるプログラマーが呼びかけるときの三人称も、「彼」から「彼女」に変化しています。これによって、素子のセクシュアリティが強調されているのではないでしょうか。元の作品では女性的なボディの中に男性の声優の声が入っているという、ジェンダー越境的なイメージが強調されていましたが、こちらではより同性愛的な側面が強調されているのです。このように作品ごとにバリエーションがあることで、どちらの意味も維持しながら《攻殻機動隊》という総体がつくり上げられているところが面白いと思います。
作品全体を通して言えるのは、素子自身は自分の身体を性的なものではなく、ひとつのオブジェクトとして扱っているということです。しかし、それを見るバトーはときにそこから目を逸したり、上着を着せてあげたりする。つまり、彼は素子の身体を異性愛的な規範に基づいて眺めているわけです。原作の冒頭で「企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても国家や民族が消えてなくなるほど、情報化されていない近未来」というたいへん有名な説明がありますが、これは同時に「ジェンダーが消えてなくなるほど、情報化されていない近未来」でもあるのかなと。
サイボーグと病んだ身体
《攻殻機動隊》シリーズは、ダナ・ハラウェイのサイボーグフェミニズムとの関わりで論じられることが多いと思いますが、これについてはいかがですか?
近藤『イノセンス』には、「ハラウェイ」というそのまんまの名前のキャラクターも登場しますからね(笑)。しかし、ハラウェイとのつながりでいうと、サイボーグ論よりも「伴侶種」の視点から読解したほうがよいのではないかと思います。ご存知のように、とりわけ「犬」については、押井監督が強いこだわりをもって描いてもいます。
清水ハラウェイはポストヒューマン思想には冷淡なんですよね。サイボーグは字義的なものと形象的なものがつねに両義的に作用している場ですが、とても複雑な仕方で女性的であり、女性であると言っています。サイボーグはまた、第二次世界大戦後、情報工学と生物工学の内破を通して形成された社会技術関係の徹底した物質化でもあり、それゆえ、ハラウェイは、人間であろうと、動物であろうと、植物であろうと、機械であろうと、私たちすべてをひとつのコミュニケーションシステムとして考えるような方法に可能性を見ています。フムス(腐植土)やコンポスト、人間にとっての伴侶種である犬への着目も、そこに由来していると思います。家族や血縁を通じた絆や構造ではなく、エディプスコンプレックスの物語には回収されない非-家族的無意識からなる関係性です。恋愛による親密さではなく、友情、仕事、遊び、非人間的なものとのつながりからなる親密さに目を向けた独特の存在論なんですよね。
《攻殻機動隊》シリーズは、その電脳世界の描写において、こうした世界観につながるところがあるように思います。ただその一方で、先ほどジェンダーの話もあったように、そこまでは振り切れない部分もある。人間的なものから逃れられない感覚が、私たちのリアリティに響くのかなと思います。
作品を離れて現実に立ち返ってみると、私たちはメタバースのような空間において、美少女でも動物でも、自分のなりたいものになることができるテクノロジーを手にしつつあります。サイボーグ化はまだですが、やがて自分の身体をも思うままにできるようになるかもしれません。生得的な身体を、意志のもとに自由にしたいという「欲望」が、現在あることは確かだと思われますが、その辺りは。
清水テクノロジーと身体という点では、自身も障害をもつ韓国のSF作家、キム・チョヨプと弁護士でパフォーマとして活躍するキム・ウォニョンの共著『サイボーグになる テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて』が多くの示唆を与えてくれる一冊でした。そこではテクノロジーを使って完璧な身体を求めたり、それに向けて治療したりするのではなく、障害をもったいま、そのままの状態で豊かに生きていくための技術が検討されています。
近藤キム・チョヨプは、SFマガジンの2023年10月号で「マリのダンス」という作品も出していますよね。これはある種の障害をもって生まれた人々が、自らつくりあげたテクノロジーをつかって世界を変えていく物語です。それぞれの障害の特性を活かした技術が登場してテロ行為なんかも展開されるのですが、いわゆる治療モデルとは異なる仕方でテクノロジーと障害の関係性を描かれています。
治療モデルと対比して最近よく言われる障害の社会モデルでは、ディスアビリティ(社会的欠陥)とインペアメント(器質的欠陥)を分けて、前者に着目して社会を変えていこうという動きがあります。ただ、私はこれだけで本当にいいのかなと疑問に思っているんです。私は筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)という病気を抱えていて、普段は車椅子を使っています。車椅子で段差を上がれないのは間違いなくディスアビリティですし、いつも困っていますが、その一方で、病気によるインペアメントから生まれる身体感覚についてもずっと気になっています。実際、障害の社会モデルに対しては、経験的な感覚を無視しているのではないかという批判がフェミニストから寄せられてもいます。
サイボーグにおいても同じことが言えると思うんですね。もし自分がサイボーグになったとして、なんらかの異常が生じる。そのとき、その感覚はどのように感受されるのか、社会の中でどのように扱われるのか。攻殻機動隊で描かれるアイデンティティの不安に私が着目するのは、このような経験や感覚に重きを置いているように思えるからです。
清水《攻殻機動隊》シリーズでも、サイボーグは完璧なものではなく、つねにメンテナンスやケアを必要とする身体として描かれていますね。その一方で、登場人物たちは人間社会における「理想的」で「健全」な身体に執着してもいるようにも見えます。バトーが筋トレしていたのも印象的です。
近藤そうなんです。少しほかの作品と比較してみたいと思います。『クィア・シネマ・スタディーズ』のなかで、井芹真紀子さんが『マッドマックス 怒りのデスロード』について論じています。そこで取り上げられるのは、片手を欠損し義手で補っているフュリオサという女性キャラクターと、同じく病んだ身体をもち呼吸器を使用している敵キャラクターのイモータン・ジョーです。井芹さんは、ディスアビリティを補う義手がヒーローとして描かれる一方で、病んだ身体そのものは悪として描かれているのだと分析しています。
これに対して、たとえば、『イノセンス』に登場するハッカーのキムは、病んだ身体をあえて義体として利用しています。サイボーグ論として興味深いですよね。押井守監督は『イノセンス』以降、自身の身体や病について意識的になっていると思います。たとえば、先ほど言及した『攻殻機動隊2.0』と近い時期に制作されたパイロット映像の『G2.5』。『ガルム・ウォーズ』のBDの特典になっているこの映像では、素子と思われる女性たちが裸で殴り合い、だんだんと身体が崩壊していくさまが描かれています。もしこれが映画として実現したらどうなっていたのかすごく気になります。
エンハンスメントへの欲望
西條ただ、《攻殻機動隊》のサイボーグが欠損を補ったり「健康」な身体を模倣したりすることを目指してつくられているかと言われると、そうでもないような気がするんですよね。倫理学の文脈で言えば、それは治療というよりむしろ身体能力の増強、すなわちエンハンスメントを目指しているのではないかなと。エンハンスメントについて私は倫理学者の佐藤岳詩さんの仕事をおもに参照していますが、例えばスポーツのドーピングがイメージしやすいでしょうか。20世紀後半には、性格を社交的にするために抗うつ剤を使う、集中力をあげるためのスマートドラッグの是非などがエンハンスメントの議論の中心でした。治療と簡単に切り離せるわけでもないので、微妙なあたりですが、美容整形なんかも当てはまるかもしれません。倫理学者のジュリアン・サバレスキュが提唱するような、より道徳的な行動や判断と、人間を生み出すための道徳的エンハンスメントといったものもありますね。
清水たしかにそうですね。人間を超える力をもつトランスヒューマンの想像力が描かれていると言えるかもしれません。『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』には、生まれつき体が弱く、しかし宗教上の理由から親に義体化を禁じられたキャラクターが登場します。そのキャラクターは死んだあと自分の脳を戦車のAIにつないでもらい、テロを引き起こし、最後にはその脳は焼かれてしまいます。彼の脳が焼かれたときに、自慢とも復讐ともつかない奇妙な感覚を感じたと素子が語る印象的な場面があるんですよね。彼が「どうだい母さん 鋼鉄の体になった俺の姿」と語っているかのようだった、と。強い身体への憧れと義体化との結びつきを表現するひとつのエピソードとして印象的でした。
近藤先ほど『マッドマックス 怒りのデスロード』について話しましたが、SF作品で障害の表象が出てくるとき、しばしばスーパーパワーとして描かれます。素子はもともと航空機事故で重傷を負い、それを乗り越えるためにサイボーグになったという過去があります。ここでは病の克服と超人的な身体の獲得が重ねられているわけです。現実のロンドン・オリンピック(2012)でも、人間を超える障害者というような物語がありました。障害というフィールドにおいても、エンハンスメントやトランス・ヒューマンになることへの圧力は、非常に強いと思います。
西條エンハンスメントの現実的な問題について言えば、治療とは違って「ぜいたく」「余剰品」として富裕層の特権化が問題になりますよね。
近藤おっしゃる通りだと思います。サイボーグの技術が進めば自由な世界が訪れるという約束や宣伝文句を、私は信じていません。単純に根拠がないと思うんですよね。新しいテクノロジーは、例えばメタバースにしても、高精度のアバターを買おうとすれば高いお金がかかりますし、それを動かそうとすればPCのマシンスペックも要求されます。あくまで資本主義の中で起こっていることであって、そこに十全にアクセスしようとすれば、現実世界と同じような不平等があるのではないでしょうか。
西條エンハンスメントについては、仮に倫理的な問題をクリアして誰もが利用できるほど普及したとしても、やはり問題があります。ドーピングが当たり前になったとして、もうやらなければ勝てない、参加資格もないという状態になったらどうでしょうか。この場合、自律的な判断はほとんどできなくなります。VR上のアバターであれば、誰でもアクセスできて、クリエイターにも還元されるなら問題がなさそうですが、心身の侵襲性を伴うものについては、テクノロジーが民主的であればよいというわけでもないのです。
テクノロジーによる格差の拡大はグローバルな問題ですね。西條さんが指摘してくださった自律的な判断の議論も気になります。例えば、もし脳を自分でいじれるようになったとき、その是非を判断する意志や主体の足場はどこにあるのでしょうか。作中で描かれるゴーストという概念は、仮想的な意思決定の座として設定されているのかもしれません。
清水《攻殻機動隊》のアニメシリーズの中では、素子たちの義体に対して「バグ」という言葉が使われることがありますよね。公安九課の人々は国家の管理下にあり、その身体は兵器として扱われています。そこで戦闘において道具としてうまく機能しない場合に、この義体にはバグがある、治らないならば抹殺しようということになっていきます。それによって素子たちの正義感による行動が制約されたり、過去の記憶が消去されたり、自分の身体のあり方が選択できないようになったりします。
ハラウェイのサイボーグの身体はコミュニケーションシステムとして異なるものたちと接続していくことをどちらかといえばポジティブに描いていたように思います。対して《攻殻機動隊》シリーズでは、身体ないし脳を共有すると、記憶が書き換えられたり、ハッキングされたりする。自分の意志や主体性、ゴーストを国家という権力機関に剥奪されることすらあるかもしれない。この意味で、テクノロジーと民主主義をめぐる問いは今後もますます大きな課題になりそうです。
死生観は変わるか
昨年、「END展」(2022)という展示を観ました。テクノロジーを通じて死生観を問うもので、たいへん興味深い内容でした。すでに我々は自分のライフログをもとに、生前と同じような身体で、同じような喋り方をするエージェントをつくりだすことができる。このような時代において、情報と生命の関わりや、死に対する倫理観はいかに変わっていくでしょうか。
西條家族や身近な人が亡くなったあとも、botをつくって会話できるというようなイメージでしょうか。それが倫理観の変容をもたらすかと言われると、私はいささか懐疑的です。人間が亡くなるというのは、その身体が失われるとともに、社会的な人格も失われることを意味しているからです。単純に言えば、もっていた財産はもちろんなくなるし、周りの反応や関心のあり方も生前とは変わります。ですから、死者によく似た身体を備え、コミュニケーションができるAIが現れたとしても、それに対しては本人とはまたべつのエージェントとして接することになるのではないでしょうか。あるいは、そういうAIエージェントを使えるからといって、自分は死んでも構わないという人もそれほど現れないように思います。
全脳スキャンなどに関するアメリカの人たちの本を読んでいると、自分のデータをすべてスキャンしてコピーを立ち上げることができれば、本人と同じだと書かれていることがあるんですよね。生命は情報で、意識は脳のシステムが生み出すものだという発想が前提にあると思います。しかし、私自身は、この身体が死んでしまえばそれで終わりで、情報の生があったとしても、自分ではないだろうと感じるのですが、このような死生観はそれぞれの国や地域の文化による影響を受けるのかなと。
西條ある種の思考実験としては理解できます。哲学者のデレク・パーフィットが『理由と人格』で展開した有名な議論が、それに似ているかもしれません。記憶を安全に保持したうえでべつの身体にそれをダウンロードしたとき、意識も引き継ぐことができたらどうだろうかというアイデアを基本にしたものです。もし現実にそれができたとしたら、やってみる人もいそうですね。パーフィットの議論では、操作ミスでもとの身体の記憶が消されないまま残ってしまい、同じ記憶をもった身体が二つになる事故が起きたらどっちがその人なのか、と続くわけですが。
近藤テクノロジーによって死生観が変化するかという藤田さんのご質問は、すごく難しいと思います。というのも、ここで問われているのは、その人がもっている現在の死生観そのものに思えるのです。新しいテクノロジーが登場するとしたら、「いま」あなたはどう感じますか、という。自分をアップロードできれば死んでも構わないという人は、もともとそういう考え方なのではないでしょうか。未来の想像をするときには、未来を想像しているいまについて考えることも必要だと思います。
西條ただ、テクノロジーによって生死に関する判断が変わるということ自体は、珍しくありません。「自分は人に迷惑をかける前に死にたいから、安楽死を合法化してほしい」というようなことを言う人がいますよね。しかし、本当にその技術や制度が現実化したとき、その人が死を前にして同じ判断を冷静に、整合的に主張するかはよくわからないのです。
清水テクノロジーと死生観ということで、コロンビア大学のDeathLAB(デスラボ)という研究チームが取り組んでいる「死を民主化せよ」というプロジェクトを思い出しました。日本ではキュレーターの高橋洋介さんが金沢21世紀美術館で「lab.3 DeathLAB:死を民主化せよ」(2018)として企画されていました。911同時多発テロの際、宗教も人種も異なる3000人もの人々をいかに弔うかをめぐって大論争になり、それを機に、墓地の不足や少子高齢化、火葬による二酸化炭素排出など、大都市における死をめぐる諸問題にどう向き合うのかという課題に取り組んでいる研究所です。具体的には、NYのマンハッタン橋に追悼の場を設けるものですが、橋の下にメタンを生成できる棺を吊るし、バクテリアによる遺体の分解から得られるエネルギーで発光するというアイデアです。このプロジェクト自体は、土葬のスペースが都市の中に足りなくなってきているとか、火葬による環境負荷が大きいとか、そういった文脈の中で考えられたものですが、死者と都市を隔離することなく、都市の真ん中で死者を弔いながら公共施設、インフラとして循環させるという、従来の死生観とは異なる大胆な構想です。
またアーティストの福原志保さんとゲオルク・トレメルさんによって結成されたBCLには故人の遺伝子を樹木の遺伝子内に保存する「バイオプレゼンス」(2004)という作品があります。いわば、「生きた墓標」ですよね。どちらの事例も、私たちの身体が失われるという死の局面において生じる葛藤や死生観を考えるうえで興味深い取り組みだと思います。
抵抗のための方法
近藤先ほど清水さんから、《攻殻機動隊》シリーズではサイボーグとしての身体を国家に所有され、兵器として使われているという話がありました。そこでは自分の拠り所としての記憶をも政府によってコントロールされていて、除隊する際にはアイデンティティも抹消されてしまうかもしれない。これはあくまでフィクションの中の話ですが、私たちが抵抗すべき現実の話であるとも考えています。
先日、アメリカで活躍するアジア圏のアーティスト、ラモーナ・ジンルー・ワンのインタビューが公開されました。彼女はサイバーパンクにおけるオリエンタリズムを批判しながら、それを逆手に取ったような作品を制作しています。インタビューでは「サイボーグ的な容姿を逆手に取って、オーガニックかつ機械的にも表現し、わたしたちがハイブリッドな存在であることを祝福するものとして再解釈した」と語っています。
《攻殻機動隊》シリーズにも、こうしたオリエンタリズムの側面があります。押井監督の映画版では、西洋から日本に向けられた視線を、さらに香港や中国に見返すことによって、オリエンタリズムが畳み込まれ、複雑に屈折している。アジアの中で権力構造を再生産している作品でもあるのです。これはサイバーパンクの潮流にある作品全体にも言えることかもしれません。
清水オリエンタリズムの根底にある西洋中心主義的なテクノロジーのあり方や、男性中心主義的なテクノロジーのあり方については、そこで誰/何が、なぜ、どのように排除されているのかを考える必要があるのかなと思います。香港出身の哲学者、ユク・ホイは、テクノダイバーシティという概念を提唱しています。彼は西洋でテクノロジーについて議論すると、いつもプロメテウスやエピメテウスといったギリシャ神話から始まり、ヨーロッパの話が延々と続くけれど、テクノロジーが意味するものは、けっして西洋の文化にだけあるわけではなくて、日本、中国、ラテンアメリカなどそれぞれの場所で異なるかたちで経験され、記述されてきたはずだと語っています。ユクはテクノダイバーシティという概念を通じて、テクノロジーの歴史を複数の歴史として描き直すことの必要性を訴えているんです。
これはエドワード・サイードの『オリエンタリズム』とも異なる議論です。オリエンタリズムは大前提として人間を中心に語られてきましたし、多文化主義の諸問題と結びつくところがありますよね。けれどもユクは、ひとつの文化を形成するけれども多数の自然に基づいているという、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロが提唱した多自然主義の考え方から世界を捉え直そうとしているんです。テクノロジーについても、普遍的な技術があるのではなくて、地域の文脈に応じてさまざまな技術があるというわけです。
これは机上の空論ではありません。たとえば、スペキュラティブ・アーティストとして活躍する長谷川愛さんには、「(Im)possible Baby/(不)可能な子供」(2015)という作品があります。フランスのPACSで同性婚をしていた牧村朝子さんとモリガさんの遺伝情報をもとに、二人の遺伝情報から誕生しうる仮想の子どもの家族写真を制作したものです。この作品は、一夫一婦制や血縁主義に固執する社会に対してクリティカルな視点を投げかけると同時に、同性間で子どもをつくるバイオテクノロジーに対する倫理観を問うものでもあります。生殖や生命倫理に対する価値観の多様さや、一筋縄ではいかない複雑さを示しているとも言えますが、技術が私たちの生き方を揺るがすものであるとすれば、科学技術とともにどのような社会を目指すのか、どのようなベクトルに向かってその技術を使うのか、その価値や活用の仕方について議論していくことが必要だと思います。
また、韓国系アメリカ人のコゴナダ監督が撮った『アフター・ヤン』という映画も近藤さんのお話と響き合うところがあるように思います。この作品では、アジア系の外見をした、高度にプログラミングされたAIからなるヒト型ロボット、ヤンが中国系の養女のベビーシッターとして兄のような役割を担っています。そのヤンは故障してしまうのですが、ロボットがアジア人や女性、子どもとして描かれるときには、ケアワークに従事したり恋愛の対象になったりすることが多いように思います。他方で、白人の男性として描かれるときには、映画『トランセンデンス』に見るように、世界を支配しようとしたり、カタストロフをもたらすものが多いようにも感じます。エスニシティやジェンダーによって、ロボットやAIの表象がまったく異なるものになる。このような事態についても、技術多様性という概念から分析することができるのではないかと思います。
近藤同じような事例として、オーストラリアのVNS Matrixというアーティストは、フェミニズム集団が登場するゲームをつくって、作品内の男性中心主義を批判しています。ポップカルチャーと強く関わるメディアを取り込み、既存のイメージやそこに潜む規範を浮かび上がらせながら、内在的に批判し、抵抗するという方向性がここにも見られます。
こうした作品実践においては、DIY的なカルチャーが称賛されます。ポール・B・プレシアドの『カウンターセックス宣言』でも、3Dプリンタでディルドをつくることで自由に活動できるという話がありました。私もDIYは抵抗において大切だと思いますが、実際のところどこまで自分たちの力でやるべきなのか。3DCGやゲームを使った作品を制作しているアーティストとして、ずっと悩んでいます。とくにプラットフォームとの付き合い方は難しいです。たとえば、ゲームエンジンのUnityはゲームの民主化を謳っていましたが、急に価格体系を変更し、個人開発者が猛反発するということがありました。大企業が握っているプラットフォームは、いきなりその方針を変えることがあるのですね。自分の作品を周知するうえでは、その思想に同意するか否かにかかわらず、InstagramやX(旧Twitter)も使わなければならないかもしれません。テクノロジーを使う作品の場合、どうしても個人の規模でできることには限界があります。
清水たしかにおっしゃる通りだと思います。アフリカ系アメリカ人のルーツをもち、身体に障害を抱えるアーティストのシャワンダ・コーベットさんも、そうした問題に向き合う作家の一人ですね。自らを「サイボーグ・アーティスト」と称し、大学院で研究するAIの成果を作品に取り入れています。彼女もまた、テクノロジーの活用は一人では難しく、自身の暮らすコミュニティそのものが、まるで自分の身体のようだと語っていました。
AIとジェンダー表象
先ほど、サイードの話が出ました。『オリエンタリズム』では、従属的で支配される対象が、しばしば女性として表象されるという問題が指摘されています。《攻殻機動隊》も「テクノオリエンタリズム」を利用したり書き換える文脈の中にあると思いますが、AIの表象においてもオリエンタリズム的構図はあると思います。例えば、人工知能学会の学会誌が、女性型アンドロイドがホウキをもって掃除をしているイラストを表紙に使って、批判を浴びました。とはいえ、東洋と西洋という議論もありますが、キャラクター文化の影響が強い日本では、すでにそうであるように、現実には若い女性の表象ばかりが使われることも容易に想像できます。AIが社会の中に当たり前に存在するようになっていく中で、AIのジェンダー表象はどう考えればいいでしょうか。
西條まず、西洋と東洋の比較については、私はかなり警戒感がありますね。日本はロボットと仲良しだけど西洋では敵対していて、そこには神道や仏教が関わっている……といった日本特殊論は、事実に即しているか判断もできず、イデオロギーとしても学術的にも魅力的なのか測りかねます。それなら《スター・ウォーズ》のC-3POやR2-D2はどうなってしまうんだ(笑)。アトムやドラえもんに日本人の宗教観が反映されているといった主張は肯定も否定もできかねますし、単純に手塚治虫や藤子・F・不二雄のキャラクター造形が巧みだっただけかもしれません。最近では、呉羽真さんという哲学者が「日本人とロボット──テクノアニミズム論への批判」という論文で、まさにこの問題を扱っています。それにサイードの『オリエンタリズム』も基本的に中東の話が中心で東アジアはあまり含まれません。西洋VS東洋と雑にいってしまうと、とくに「東洋」に含まれる多様な文化圏が消去されてしまうリスクを感じます。
もちろんこれは国内だけの問題ではありません。ごく一部ではありますが、欧米の研究者から東洋らしいロボット観を期待されてうんざりすることもあります。20世紀初頭のヨーロッパの美術界が、アフリカの伝統芸術を他者化して、勝手に「新しさ」を見出すようなものですよね。コミュニティごとに固有のニーズが生まれることはたしかだと思いますが、あくまで実証ベースで調査していくことが誠実な態度ではないかと思います。
そのうえで藤田さんからいただいた質問に戻ると、そもそもAIがなぜジェンダー化されるのでしょうか。人間は自然言語を使う主体を見ると、なんとなく擬人化したくなるんですよね。AppleのSiriやAmazonのアレクサのようなアシスタントソフトウェアも女性のジェンダー表象を纏っています。とりわけ後者については、ジェンダーギャップを助長する有害な事例だとして、2019年にUNESCOで批判されましたね。まずもって、不必要なジェンダー化は避けるべきでしょう。
かといって、製品によってはジェンダー化が満たすべきニーズの観点から必要な場合もあるでしょう。例えばセックスロボットです。AI搭載型のセックスロボットの製造開発を行っているアメリカの会社のウェブサイトで、商品のイメージ画像で頭部を透明にしているものを見たことがあります。機械であって人間ではないことをはっきり示すデザインは、誠実さという点で望ましいのかなと思います。そうは言っても、企業からするとユーザーに愛着を抱かせる必要もあるので、どこまで人間的なイメージを全面に押し出すか、バランスの調整が必要になりますよね。
これとは別問題として、音声の非ジェンダー化が非常に難しいということも話しておきたいと思います。人間は声のトーンによって、それが男性か女性かを二分するという傾向が強いようなんです。「Q」という「ジェンダーレスな音声」を開発しているヨーロッパの団体もあるのですが、どう感じるかぜひ聞いてみてください。私が講義で学生に聞いてみると、若い男性に聞こえるという反応が多くありました。セリーナ・サットンさんの「Gender Ambiguous, not Genderless」という論文は「Q」について、ジェンダーレスというよりはジェンダーが曖昧なものというほうが適当であり、ノンバイナリーに対するステレオタイプへの加担ではないかという批判しています。
清水音声の問題は面白いですね。声は身体から生じますが、身体の部分ではありませんし、言語に属することなく言語を支えるものですよね。テクノロジーと声の問題は、人形使いの声が作品によってバリエーションをもつことで《攻殻機動隊》という総体がつくり上げられているという、先ほどの近藤さんのお話とも関係しますね。
西條藤田さんが質問してくださったキャラクター文化とテクノロジーの関連については、また少しべつの議論がありえると思います。セックスロボットのようなケースを想定すると、ポルノグラフィに対するものと同じように、その害がなるべく少ないようにデザインするべきだという話になる。例えば、人種的なフェティシズムが反映されているロボットは批判するべき要素があるといった具合でしょうか。
これは論点として重要なのですが、ロボットが人工物であることを考えると、なかなか一筋縄ではいかないと思っています。先ほど、AIと人間が違うことを明示するべきだという話をしましたが、むしろAIやロボット、キャラクターなどの人工物に対して固有のセクシュアリティをもつ場合もあるからです。とりわけ日本的なオタクのカルチャーでは、キャラクターに対して強い愛情をもち、かけがえのない存在だと思っている人も少なくありません。キャラクターが現実の女性や男性のある種のステレオタイプを表現しているからといって、それを愛する人をすぐに差別に加担しているといって批判するのはおかしいとも思います。男性と女性で結婚しているカップルは保守的なジェンダー観に加担しているからやめるべきだ、というのが一方的な主張であるのと同じですかね。
テクノロジーと記憶の継承
近藤テクノロジーと表象の関係について、もう少し話してもいいでしょうか。《攻殻機動隊》の実写版が出たとき、素子がホワイトウォッシュされているという批判がありましたよね。議論を見ていて印象的だったのは、日系アメリカ人も含めたアジア系アメリカ人にとって、素子がものすごく大切な存在だということです。なかなか自分たちをリプレゼンテーションできない人々にとって、彼女の存在はとても大きいものだった。
私はこのような議論が重要だと思います。それはローカルな記憶の集積として、現在を考えるということです。固有の歴史や文脈は、必ずしもローカルなものでもない。例えば、クィアであれば、そこにはローカルな部分もあれば、グローバルな部分もあります。SF的な想像力とエスニシティの関係においてしばしば言及されるアフロフューチャリズムについても、その言説を発する主体は必ずしもアフリカンアフロではないということで忌避されることがあります。アメリカに移民させられたアフリカの人々や、奴隷制で連れてこられた人々の記憶を継承することの隠匿につながるのではないかと考えられているからです。
この文脈で、ダニエル・ブレースウェイト・シャーリーというアーティストを紹介したいと思います。彼女はアメリカのブラックトランスの作家で、ゲーム的な体験を通じて、ブラックトランスの経験に触れる作品を制作しています。ちょっとノスタルジックな雰囲気も重要で、過去に思いを馳せることにつながっています。インターセクショナルな歴史を、テクノロジーを通じて継承するというテーマがここには織り込まれているのではないかと思います。
清水テクノロジーによる記憶の継承ということでは、シドニーユダヤ博物館も興味深い取り組みをしていると思います。最近では、アメリカ研究者の矢口祐人さんが「歴史博物館におけるAIと歴史証言」という論文でこの問題を扱っています。この博物館ではホロコーストを生き抜いたサバイバーが自身の経験を語るボランティアをしているのですが、高齢化が進み、語るのが難しい方も出てきています。そこでサバイバーが世を去ったあとも来館者がサバイバーと会話を交わし、記憶を継承できるようにその証言を記録し、AI技術を駆使した「証言の次元」という企画に取り組んでいるんです。音声だけでなく、サバイバーの姿がスクリーンに映し出され、まるでこちらに語りかけているかのようです。これによって、未来の来館者がどのような質問をしても応じられるAIを実現しようというわけです。とはいえ、質問者が子どもであれ、大人であれ、回答の仕方も内容も表情もまったく変わらない、あるいはインタラクティヴなディスカッションができるわけではないなど、なかなか人間同士の応答のようにはいかないようですが、個々人の経験とその記憶をパブリックな記憶として歴史に接続するエージェントとしてAIを活用しようというアイデアのひとつですね。
西條これは私もポジティブな事例ではないかと思いました。当事者の許諾をとったうえで、誰の証言が学習に使われているか明文化し、来場者が本人のものと取り違えないように設計されている。反対の事例が、AIで美空ひばりさんを蘇えらせ、そっくりの外観で歌を歌ってもらおうというものです。あれはもちろん本人からの許諾を得ていないし、復活させるという嘘のような言い方をしている。
清水西條さんのお話で思い出したのは、韓国のアーティストのキム・ジョンギさんのことです。彼が亡くなって3日も経たないころにフランスの元ゲーム開発者がキムさんの画風で画像生成するツールを公開し、厳しい批判と反発を受けました。「悪趣味な売名行為」「アジア人差別」という声とともに、亡くなった人をさらに働かせるのかというコメントもありました。
本人の意志と無関係に死後も「作品」を生成させられ続けるという、ある種の労働問題に見立てているわけですね。最近では、ハリウッドの俳優と脚本家が利益の公正な分配と労働条件の改善、AIの活用に対してストライキをおこなった事例もありました。
西條清水さんの挙げてくださった事例においても、やはり手続き的な正当性を確保することが重要だと思います。先ほどのユダヤ博物館の事例はこの点にきちんと向き合ったうえで、インタラクティブなインターフェイスを通じて、リアルな証言に触れる経験をデザインしている。それはとてもよい試みではないでしょうか。AIではなく人間であっても、記憶というものは思い出すたびにその都度書き換えられたり、語り直されたりするものですからね。
未来の複数性に向けて
ここまでの対話の中で、それぞれのローカルな文化や私的な固有性を引き継ぎながら多元的な未来を構想するというビジョンが見えてきたように思います。最後に改めて、歴史性を踏まえた、これからのテクノロジーのあるべき姿についてそれぞれの考えをお聞かせいただけますか。
西條私が専門知識として身につけた哲学の手法は、歴史性と縁遠いものでした。そのため、うまく答えられるかわかりませんが、倫理的な観点からテクノロジーについて考えたいと思います。私はテクノロジーの未来について考えるうえで、将来世代から地球環境にまで及ぶ、大規模な影響について無視できないなと思います。放射性廃棄物は何億年単位で影響を与えるし、そこまで大きなものでなくても、現在禁止されているアスベストはいまでも残存していて、建築現場で働く人の健康被害につながっている。1950年代のアメリカでは、ニューヨーク市の再開発に際して、貧しい世帯の住居環境を破壊して、移住させたことがあります。テクノロジーは土地に根づくコミュニティやその歴史すらも破壊することもあるわけです。
今日話題にあがったAIの場合は、学習元になるデータの捉え方が重要になると思います。これをフリー素材のようなものだと考えると、よくない結果になりかねません。現段階では、法律もガイドラインも国ごとに違っていて、少なくとも日本では著作権法上でも保護されていません。そのため、開発者や使用者にとっては、倫理的な振る舞いが求められる段階だと思います。そのデータは誰が、どこで、どんな文脈の中で使ってきたものか。グラビアの被写体となったモデルから、第三者が無断でヌード画像を大量につくり出すこともできてしまいます。先ほどのハリウッドの事例やユダヤ博物館もそうですが、「同意」をどのように設計するかがひとつのポイントになると思います。
清水ジャン・フランソワ=リオタールは、テクノ=サイエンスが未来と呼ばれているものに現在を隷属させ、偶然性に対する開かれを失ってしまう状況に強い危惧を示していました。AIに関して言えば、いわゆる「AIカニバリズム」の構造はこれにあたるかもしれません。ChatGPTが世界中の様々なデータや情報を学習して回答を出したとしても、そのChatGPTを使って作成された情報がネットに流通し、それをまたChatGPTが読み込んで回答するというかたちで悪循環が生じて精度が落ちてしまうというわけです。そうなると、AIにいかに偶然性を噛ませることができるのかという点がポイントになってくるように思います。
それからまた、アメリカのクィア理論家であるジャック・ハルバースタムの指摘も忘れてはならないと考えています。アップルコンピュータがジョージ・オーウェルの『1984』をもじったCMとともに現れた時点で、私たちはすでにアダムとイブがりんごを齧ったあとの現実を生きています。まさにアップルコンピュータのロゴに象徴される世界です。ハルバースタムは、女性サイボーグとアラン・チューリングを論じながら、新しいテクノロジーの時代における人工と自然の関係を問い直し、ポストキリスト教的な世界観の中で、どのように複数の神話や多様な欲望を織り込んだ物語をつくることができるのかを模索しているのですが、このヴィジョンは現在の私たちにとっても欠くことのできない重要なものであると思います。
近藤私はいま、技術は未来を語るものではなく、じつは過去の記憶を語るものではないかと考えています。《攻殻機動隊》シリーズにおいても、押井監督の映画版では、人形使いの話の中で公衆電話が出てくるんです。1995年の当時において現実と未来をつないでいたこのテクノロジーは、いまや追憶の対象でしょう。私たちはノスタルジックなテクノロジーを通じて、過去を想像しながら未来を想像することができる。マイノリティの歴史を継承するうえでも、この方法に可能性があるのではないかと考えています。
こんどう・ぎんが/アーティスト、ライター、美術史研究。1992年岐阜県生まれ。中学時代に難病CFS/MEを発症、体力が衰弱し以降車いすで生活。2020年より東京芸術大学先端芸術表現科修士。フェミニズムとセクシュアリティの観点から美術や文学、サブカルチャーを研究しつつ、アーティストとして実践を行っている。とくにレズビアンと美術の関わりを中心的な課題として各種メディアを使い展開。個展に「夢のような詩のような政治のような日常」(東京、2018)、「グラデーションの美学」(東京、2020)。おもなグループ展に「プンクトゥム:乱反射のフェミニズム」(東京、2020)、「Comfortable展」(東京、2021)など。共著に『『シン・エヴァンゲリオン』を読み解く』(河出書房新社、2021)、『われらはすでに共にある: 反トランス差別ブックレット』(現代書館、2023)などがある。
さいじょう・れいな/東京電機大学工学部人間科学系列助教。分析哲学を背景にフェミニスト哲学やロボット倫理学の研究に従事。共著に『クリティカル・ワード ファッションスタディーズ』(蘆田裕史・藤嶋陽子・宮脇千絵=編著、フィルムアート社、2022)、論考に「どのように「女性」は定義されるべきなのか」(『現代思想』50(5) 、2022)、「人工物がジェンダーをもつとはどのようなことなのか 」(『立命館大学人文科学研究所紀要』 120、2019)など。
しみず・ともこ/東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科准教授。専門は文化理論、メディア文化論。著書に『文化と暴力―揺曳するユニオンジャック』、『ディズニーと動物―王国の魔法をとく』、共訳にジュディス・バトラー『アセンブリ―行為遂行性・複数性・政治』、『非暴力の力』、アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート『叛逆―マルチチュードの民主主義宣言』、ディヴィッド・ライアン『9・11以後の監視:〈監視社会〉と〈自由〉』など。